織田信長の撤退路に使われた「鯖街道」 そのユニークな名前の由来をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(14)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

織田信長が必死で逃げた道

信長の隠れ岩(滋賀県高島市)。
信長の隠れ岩(滋賀県高島市)。

 戦国時代、熊川宿とその北にある朽木(滋賀県高島市)を巡って織田信長と、その妹・お市をめとったことで知られる浅井長政との間に大きな事件があった。

 NHK大河ドラマ『どうする家康』に、金ヶ崎の退き口(のきくち)が描かれたのをご存じの人も多いだろう。信長は義弟の長政と敦賀湾に立つ金ヶ崎城で合流し、越前の朝倉義景を攻める計画を立てていた。だが、長政が裏切って朝倉に付いたため、金ヶ崎城は長政と義景に挟撃される危険に陥った。

 このとき、撤退を余儀なくされた信長が逃げ道として使ったのも、鯖街道だった。殿(しんがり/退却する際に最後尾にいて、敵の追撃を防ぐ役割)を木下藤吉郎(豊臣秀吉)と徳川家康に任せて京都へと逃げ、その途中、朽木を治めていた近江の土豪・朽木元綱に支援を求めた。元綱への使者を務めたのは、信長の家臣・松永久秀だったという。
 要請を受けた元綱は、信長を助ける。

 朽木元綱が味方に付くのか、はっきりするまで身を隠していたと伝わる岩窟「信長の隠れ岩」も、高島市内の山中に現存し、戦国ファンの注目スポットとなっている。

 また、このことによって朽木氏は信長の配下となり、9500石を安堵(あんど)されることとなった。その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕え、最終的には福知山藩主として幕末まで存続する。

 難を逃れた信長は、京都における鯖街道の最終地、三千院のある大原にたどり着いた。大原は僧の修行地であり、また都近郊の街道沿いにある農村として発展した地である。しば漬けに使われる紫蘇(しそ)の産地としても知られ、のどかな山里が今も広がっている。このように、鯖街道は流通から軍事・名産品・宗教に至るまで、限りない歴史の宝庫である。

 舗装されていないトレイルコースを活用し、鯖街道ウルトラマラソンも開催している。去る5月の大会で28回を数えた。
 歴史遺産を活用した町おこしの事例として、モビリティー産業に関わる人たちに知っておいてもらいたい。

●参考文献
・『市政』平成27年8月号 日本百街道紀行第12回鯖街道(公益財団法人全国市長会館)
・週刊日本の街道 京都・若狭街道 鯖街道(講談社)
・近江野ざらし紀行 北陸・湖西街道・鯖街道篇(サンライズ印刷出版部)

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