織田信長の撤退路に使われた「鯖街道」 そのユニークな名前の由来をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(14)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

旧街道の風情を残す熊川宿

「若狭国(わかさのくに)遠敷郡玉置郷田井里(おにゆうぐんたまきごうたいのさと/現在の福井県若狭町)と墨書きした木簡(画像:colbase)
「若狭国(わかさのくに)遠敷郡玉置郷田井里(おにゆうぐんたまきごうたいのさと/現在の福井県若狭町)と墨書きした木簡(画像:colbase)

 鯖街道沿いで最もにぎわいをみせたのが、熊川宿(福井県若狭町)だ。

 江戸時代は物資輸送の中継地として発展し、最盛期には年間で20万駄(駄とは馬1頭が運ぶ荷物の重さ。1駄約135kgとして2万7000t)の米や、鯖をはじめとした魚が、この地を経由した。

 現在、鯖街道ミュージアムがある。2020年にオープンした新しい施設であり、前述のいづみ町と同様のレリーフも置かれている。

 漫画で街道を解説したPR誌の頒布や、鯖街道の立体模型の展示など、コアな歴史ファンならずとも楽しめる博物館だ。

平城京遺跡から出土した木簡

熊川宿の番所(福井県若狭町)。
熊川宿の番所(福井県若狭町)。

 また、若狭と朝廷を結びつけるものとして、奈良時代の平城京遺跡から出土した木簡があげられるが、これらの案内も展示している。

 こうした木簡は、若狭国が皇室に「調」(みつぎ)として納めた品物を記した荷札だ。奈良時代の貢ぎ物は、塩が中心だった。つまり、かつての鯖街道は塩を運搬する重要な道でもあった。

 木簡の現物は国立博物館が国宝として所蔵している貴重史料で、鯖街道ミュージアムに展示されてはいないが、若狭の重要性を知る上で欠かせない。

 熊川宿は谷あいに沿って、細長く伸びている。伝統的な町並みを残すため、家屋は今も瓦(かわら)屋根が多い。荷を改める役人が詰めた番所も、宿場の東に瓦屋根で復元されている。

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