山手線が昔「やまてせん」と呼ばれていたワケ 背後にあった数奇な歴史、沿線No.1のカレーライスを食べながら考える
「やまて」から「やまのて」へ
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、鉄道施設や道路標識にローマ字表記を併記することとなった。そのとき、国鉄内で使われていた略称「やまて」に引っ張られるかたちで、山手線は
「YAMATE=Loop=Line」
と併記された。
結果、1971(昭和46)年に路線名の読みを「やまてせん」から「やまのてせん」に統一するまで、人々の間では
「やまてせん」
が定着してしまった。
統一の1年前である1970年、国鉄は旅行キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を始めた。その際、キャンペーンの一環で駅名や路線名にわかりやすくふりがなをふることとなった。そして翌1971年、山手線は「やまのてせん」となった。
国鉄が「やまのてせん」を復活させたのは、線名の由来や発祥を鑑みて「やまのてせん」が正しいと判断したからだった(イカロス出版『山手線のヒミツ―命名100周年!』より)。
山手線の車内で作品を執筆した作家
小説家・志賀直哉(1883~1971年)は1917(大正6)年、短編小説『城の崎にて』を発表した。高校生のときに教科書に載っていたので、筆者も読んだことがある。作品はこんな一文で始まる。
「山手線の電車に跳(は)ね飛ばされて怪我(けが)をした、その後(あと)養生に、一人で但馬の城崎(きのさき)温泉へ出掛けた」
志賀は私小説の大家であり、本作も自身の体験をもとに書かれている。実際に1913年、志賀は山手線との接触事故を起こしている。事故後すぐに病院に運ばれ、その後、城崎温泉へ出掛けた。
このように、接触事故をきっかけに小説を書いた作家もいるが、山手線の車内で作品を書いた作家もいる。それが森敦(1912~1989年)だ。森は1974(昭和49)年に『月山』で芥川賞を受賞。そのときの記者会見で、作品は朝早く山手線の車内で書き続けたといった。
山手線に乗ると、ノートなどを広げて何かを書いている人を昔はよく見かけたが、今やノートパソコンでなにやらしきりに文字を打ち込んでいる人ばかりだ。今も昔も移動しながら文章を書く人は結構いるのかもしれない。筆者も試しにやってみたが、なかなか集中できなかった。