大手私鉄の兼業といえば「不動産」「流通」も、戦前はなんと電気事業が圧倒的だった!
電力兼業の衰退と失われた可能性
さて、このように電鉄による沿線での電力業は、戦前の電鉄にとって最大の兼業であったし、利益も大きかった。既存の電鉄に並行する新たな電車ができたり(南海に対する阪和のように)、国鉄が電化して私鉄のライバルになったり(京成と総武線や阪神・阪急と東海道線のように)すると、既存の電車は打撃を受けるが、沿線の地域全体で見れば交通が便利になって人口が増加し、電気の需要も増える。電車でのライバルは、兼業の電力業にとってはむしろ好材料となり、電車の受けた打撃を回収することができた。
このように電鉄にとって大きな存在だった電力兼業は、1941(昭和16)年公布・翌年実施の第2次電力国家管理と配電統制令によって、強制的に既存の電力業が発送電部門は日本発送電、配電部門が地域ごとの配電会社に統合されたことで、電鉄の手を離れてしまった。
これは電力業の側から見れば、都市内は市営の電気局、郊外は沿線ごとに電鉄各社と、大都市圏の電気供給区域が細分化されていたのを、広域の供給区域に一元化できた、合理的な施策であったということはできる。
しかし一方で、失われた可能性もあったのではないだろうか。電鉄会社が電気のインフラも担い、当時のはやり言葉でいえば「文化」的な生活を丸抱えして供給する、それはそれで暮らしやすそうな都市のライフスタイルを作れたかもしれないのである。もし電力国家管理がなければ、電化製品の売られ方や普及の形態は、かなり変わったものになったかもしれない。
全国レベルの役所や電力会社の都合からすれば不合理な面があった電鉄兼営電力業も、地域レベルで見ればそれなりに合理性があった。電力国家管理には、地域ごとのそういった生活レベルでの合理性を、国策(とりわけ当時は日中戦争が泥沼化していた)によって押しつぶしたという面もあったのである。
そして国策の電力国家管理は、軍需を含む産業の振興のために「豊富低廉」(当時の売り文句)な電気を供給することが眼目で、生活の豊かさについては無頓着であった。それは戦後の電力政策にも引き継がれた面がありそうだ。