大手私鉄の兼業といえば「不動産」「流通」も、戦前はなんと電気事業が圧倒的だった!

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大手私鉄はコングロマリットを形成しているが、戦前はそのなかでも電気事業が圧倒的な存在感を占めていた。その歴史をたどる。

戦時中の統合と関係の断絶

1933年の鉄道事業者の収入に占める鉄道比。『電気事業要覧』第26回(1935年)より(画像:『電気事業要覧』のデータを基にMerkmal編集部で作成)
1933年の鉄道事業者の収入に占める鉄道比。『電気事業要覧』第26回(1935年)より(画像:『電気事業要覧』のデータを基にMerkmal編集部で作成)

 私鉄の兼業といっても、先の表から読み取れるように、南海・京阪・阪神の各社は兼業の大部分が電力業であり、このように

「電車と電力の二本柱」

という会社が戦前はしばしば見られた。関東では京王電気軌道(現・京王電鉄)や王子電気軌道(現・都電荒川線)などが同様のパターンであった。

 また逆に、電力会社が電車を兼業する例も多かった。まだ電気の用途が電灯中心だった時代、昼間の大きな電気需要である電車は電力会社にとって重要な存在であり、自社で電車事業に乗り出したり、電鉄会社を買収して傘下に収めたりすることもよくあった。

 例えば、東京電灯に次ぐ戦前第二の電力会社・東邦電力が福岡の路面電車を経営していたり、五大電力の一角だった宇治川電気が一時現在の山陽電鉄を傘下に収めていたり、大手電力のひとつだった京都電灯が京都と福井で電車を走らせたり、類例はたくさんあった。

 しかし、電力会社は戦時中の国家管理によって国策会社へ強制的に統合され、電車と電力の関係は絶たれてしまった。電鉄会社の電力兼業も国策会社に統合され、電力会社が営んでいた電車も独立せざるを得なかった。

 電車よりも兼業の電力の方がもうかっていた京王電軌は、経営基盤を失って東京急行電鉄(現・東急)に合併されてしまう。東邦電力が営んでいた福岡の路面電車は西日本鉄道に統合(1979年廃止)され、京都電灯が営んでいた福井と京都の電車は京福電鉄として独立(叡山電鉄とえちぜん鉄道が後年分離)した。

 戦後の9電力体制(沖縄復帰後は10電力)でも、私鉄は電気事業を新たにできなかったし、電力会社も兼業が原則としてできないことになったので、関係は絶たれたままだったのである。

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