新幹線「函館駅乗り入れ」はなぜ有権者の支持を集めたのか? その背景にあった、裏切られ続けた自治体蹂躙の過去

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函館市長選で「新幹線乗り入れ」という公約はなぜ有権者の支持を集めたのか。その背景には新幹線に期待しつつも裏切られてきた函館の歴史がある。

「新函館北斗」までの経緯

北斗市(画像:(C)Google)
北斗市(画像:(C)Google)

 そして、2011(平成23)年には当時の西尾正範市長が市議会で乗り入れは困難との意見を表明するに至った。それでも、市議会では諦められない議員もいたのか

「新幹線はJR東日本に経営してもらうのはどうか」

というむちゃな意見も出たことが報じられている。

 こうして、長年抱いていた新幹線乗り入れの夢に破れた函館市に追い打ちをかけたのが、駅名称をめぐる問題だ。

 新幹線停車駅となる渡島大野駅は、開通時に駅名を新名称に変更することが決まっていた。当然、函館市では「新函館」となるものと考えていたのだが、ここに待ったをかけたのが北斗市だった。

 2006年に合併で誕生した北斗市では、初代の海老沢順三市長が市長就任記者会見で駅名を「北斗駅」とする意向を示した。その後、譲歩はしたものの駅名は「北斗函館」とすべきとして譲らない姿勢を見せた。双方にはそれぞれ言い分があった。

 函館市としては、1973(昭和48)年に整備計画路線となった段階から新幹線停車駅は「新函館(仮称)」とされ、公文書などでも使われていることを掲げた。対して、北斗市は駅の所在は北斗市であり、駅周辺整備も市の予算で実施していることを主張した。JR北海道は2014年6月に駅名を決定することを表明していたが、両市はそれぞれに働きかけを強めており、一向に駅名が決定する気配はなかった。

 そして、駅名決定まで1年を切った2013年10月、地元経済界のトップである函館商工会議所の松本栄一会頭が私案として「新函館北斗」を提示した。地元経済界のトップが動いた背景には、駅名が決定しないと開業に向けたPRもしにくいという現実的な事情があった。

 結局、2014年6月にJR北海道は駅名を「新函館北斗」とする折衷案を採用すると発表した。両市もこれを受け入れることを決め、ようやく駅名は決定に至ったのである。

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