新幹線「函館駅乗り入れ」はなぜ有権者の支持を集めたのか? その背景にあった、裏切られ続けた自治体蹂躙の過去
函館市長選で「新幹線乗り入れ」という公約はなぜ有権者の支持を集めたのか。その背景には新幹線に期待しつつも裏切られてきた函館の歴史がある。
建設費用という現実
この覚書を根拠として、その後、函館駅乗り入れが実現しなかったことを函館市は、約束を破られたと認識している。『北海道新聞』の記事では「函館市が約束を破られた」とする表現が幾度か使われている。ここで、そのひとつを示しておこう。
「一方、函館市は新駅の場所が当時の大野町(現北斗市)に決まった上、新幹線の函館駅乗り入れを確約する覚書を交わした道にその約束をほごにされる事態を経て、11年末には札幌延伸時に新函館-函館間をJR北海道が経営分離することも受け入れている」(『北海道新聞』2014年6月4日付朝刊)
函館市は「一定の理解」によって、道が乗り入れを実現してくれると考えていたわけである。市の事業もその前提で進んでいる。1996(平成8)年に政府与党によりルートが確定した際、函館駅乗り入れはまったく触れられなかったにも拘わらず、である。
2000年3月に函館市議会で、市の担当者は当時建設中だった新駅舎(2003年6月開業)は、ホームと改札口の一部改良だけで新幹線乗り入れが可能な設計になっていることを明らかにしている。この時点で、まだ函館市では函館駅に乗り入れるものと見ていたわけである。
この函館市の夢にほころびが出始めたのは、乗り入れ路線の建設費用が試算されてからだ。2005年、北海道新幹線着工を機に道内の研究者により函館駅に乗り入れる路線の試算が公表された。それは、次のような金額だった。
・函館駅までフル規格で建設:1000億円
・在来線利用のミニ新幹線で建設:150~250億円
函館市はもちろん、巨額の財政赤字を抱えた道が賄える費用ではなかった。建設工事が始まり、具体的な費用が提示されたことで、乗り入れ計画は急速にしぼんでいった。