新幹線「函館駅乗り入れ」はなぜ有権者の支持を集めたのか? その背景にあった、裏切られ続けた自治体蹂躙の過去
函館市の不満
北海道新幹線開業にともない、渡島大野駅を改称し新函館北斗駅ができたのは2016年3月である。以来、函館市の中心である函館駅へは在来線を走る「はこだてライナー」に乗り換えて向かうのが定着している。
しかし、新函館北斗駅は函館市から見れば、決して満足できる駅ではなかった。
もともと、北海道新幹線の計画段階では、この地域の新幹線駅は函館駅を利用、あるいは近隣に新函館駅を建設することが、想定されていた。これに対して「新幹線駅をわが町に」と新たに名乗りを上げたのが、大野町(2006年に合併で北斗市)だった。
1973(昭和48)年に計画が始動してから、北海道新幹線は実現性もあやふやなまま長く停滞した。函館市を中心に早期実現に向けた運動は続けられていたが、1982年に政府は国鉄の経営悪化を理由に、整備新幹線の計画見合わせを閣議決定し、建設は停滞した。
その後1987年に計画の再開が決定され、翌1988年に青函トンネルを通る海峡線が開通したものの、新幹線のルートは一向に決まらなかった。
少なくとも、函館方面へ向かう路線はできるだろうが、その先は札幌まで向かうのか否かも不明瞭なままだったのである。とにかく、函館までの新幹線開通は確実視されていたことから、新幹線停車駅は函館駅となるというのが1980年代後半から1990年代前半にかけての有力な観測だった。
大野町、街ぐるみの抵抗
ところが、札幌まで路線ができるとなると話は変わってくる。そこで、大野町は札幌まで伸びる新幹線を建設した上で同町内に新幹線停車駅を設けることを強力に主張した。
1990年代前後には、函館駅が新幹線停車駅となった場合、大野町は建設に必要な環境アセスメントに協力しないという強行な主張を街ぐるみで行っている。
まだ建設計画も固まっていない段階で沿線自治体が対立していることは、計画前進の足かせになると危惧されていた。そこで1990(平成2)年6月には渡島管内の首長による会合で「新駅決定の判断は道にゆだねる」ことが確認されている。
1993年4月には函館市で建設を促進してきた「新幹線現函館駅乗り入れ促進期成会」でも、名称を変更し「新幹線青森・函館同時開業促進期成会」に改める譲歩を行っている。