茨城の謎! 京成百貨店は“京成”なのになぜ「水戸市」にあるのか
百貨店事業進出が遅かった京成電鉄
ただ、これらの経緯はわかっても京成電鉄が茨城県への進出をもくろんでいた理由の説明にはならない。
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それを調査する上でカギになるのは、京成電鉄の百貨店事業進出が、ほかの鉄道会社に比べて遅かったことだ。同社初のデパートは1963年開業の市川京成百貨店である。
その後、京成電鉄は茨城県土浦市にあった霞百貨店を傘下に入れ、1964年に京成霞百貨店(後に土浦京成百貨店)を開業している。
メインターミナルである上野に進出したのは1972年で、下谷郵便局跡地を購入して上野京成百貨店を開業した。
茨城県進出をもくろんだキーマン
京成電鉄の茨城県進出をもくろんだキーマンが、第5代社長の川崎千春氏である。オリエンタルランドの初代社長としても知られる同氏は、旧制水戸高等学校(現・茨城大学)の出身者だった。
川崎氏が社長だった1958(昭和33)年から1979年まで、京成グループは高度成長期の波に乗り、京成沿線か否かを意識せずに多角経営を進めている。例えば、ホテル業では
・洞元湖温泉ホテル(群馬県)
・奥那須京成ホテルおだん荘(栃木県)
など、路線と全く関係ないところに進出している。
川崎が手がけたディズニーランドも最初、千葉県我孫子市の手賀沼に計画されていた。しかし頓挫したため、朝日土地興業の丹沢善利社長とともに、旧制水戸高等学校の1年先輩だった三井不動産の江戸英雄社長に話を持ち込んだことで、計画が始まったのだった。江戸の回想によれば、川崎はこんな風に話を持ち込んだという。
「浦安地区二百数十万坪の埋め立てについて、県から許可がおりた。ただし東京に近い約六十万坪をレジャー施設にするという条件がついている。われわれ三社で別会社をつくって、この仕事を引きうけないか」(『日刊工業新聞』2001年9月19日付)
そうした豪快な人物だからこそ、路線とは縁のない茨城県への進出にも積極的だったのだ。京成グループを拡大させた川崎だったが、もちろん全てがうまくいったわけではなく、土地の買い付けや設備投資に失敗している。引退後、それらについて経済誌に書かれたこともある。