新横浜駅周辺は「西武王国」 鉄道乗り入れないのになぜ? その背後にあったどす黒い歴史とは

キーワード :
, ,
西武鉄道は新横浜線に乗り入れていないにもかかわらず、新横浜駅周辺には新横浜プリンスホテル、新横浜ペペなど、西武系の施設が目立つ。いったいなぜか。

大規模な土地を所有したワケ

堤康次郎。筑井正義『堤康次郎伝』より。
堤康次郎。筑井正義『堤康次郎伝』より。

 裁判は、次のような経過をたどっている。

・1989年1月:住民が交換は等価交換ではなく市民に21億円の損害を与えたとして市を提訴
・1992年6月:訴訟の過程で評価額に59億円の差があったことが明らかとなる
・1993年10月:横浜地裁が市民に損害は認められないとして請求を棄却
・1996年1月:東京高裁が控訴を棄却

 一方、横浜市が南口の土地区画整理事業の都市計画を本格化したのは、裁判が行われていた1991(平成3)年のことだ。同年11月には市の委託を受けた業者が地権者に無断で測量を行ったとして、住民が抗議している。

 これに対して横浜市は

「羽田空港アクセス線の基礎調査で、区画整理事業とは関係ない」

と答弁している。ところが、その後も横浜市の悪手は続いた。

 区画事業に関する公文書を非公開としたり、住民が組織していた街づくり研究会のうち、市の方針に賛同する側にだけ補助金を与えたりしたのである。このため、1994年に横浜市は土地区画整理事業を「決定」したが、全く事業を進められなかった。

 そして2002年12月、横浜市はついに区画整理の中止を決めたのだ。ただ、毎年更新される横浜市の「区別道路整備予定箇所図一覧表」では、今でもこの区画整理で予定されていた道路が図面上に描き込まれている。

 これらの経緯から、区画整理が「住民の意向を無視して行われている」と認識され、南口の区画整理案に影響したのは想像できる。

 しかし、住民の反発はそれだけではなかった。彼らの間には、新横浜駅が計画された当初からの西武グループに関する不信感があったのである。

 なお、ここでの西武グループは、創業者・堤康次郎による箱根土地・西武鉄道を中心とした「西武企業グループ」を前身とし、その後、三男・堤義明のコクド・西武鉄道を核とする「西武鉄道グループ」と、次男・堤清二による「西武流通グループ(後のセゾングループ)」に二分されたうちの「西武企業グループ」と「西武鉄道グループ」を指すものである。

 現在、西武グループと呼ばれるのは、2004年の堤義明失脚後に、みずほ銀行主導で「西武鉄道グループ」を再編した西武ホールディングスを中心としたグループだが、これとは異なる。

 さて、どうして、路線を持たない西武グループが新横浜駅周辺に大規模な土地を所有するに至ったか。その理由は、これまでも多くの報道やノンフィクション、小説などで明らかにされてきた。

 簡潔に述べるなら、東海道新幹線が計画され、まだ駅の設置場所も明らかにされていなかったとき、西武グループの創始者・堤康次郎が

「インサイダー情報」

を得て土地を買い占めたからである。

全てのコメントを見る