自動車は「社会のガン」 ノーベル賞に最も近い日本人経済学者はなぜ自動車を大批判したのか? 事故・公害・犯罪を誘引、SDGs社会で再考する

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「ノーベル経済学賞に最も近い日本人」といわれた経済学者・宇沢弘文。そんな宇沢はなぜ自動車の存在を非難したのか。改めて考える。

二酸化炭素排出の代償

大気汚染のイメージ(画像:写真AC)
大気汚染のイメージ(画像:写真AC)

 宇沢は本書の後半で

「まず第一に指摘しなければならないことは、現在の日本では、すべての人々が自動車を所有し、運転し、道路サーヴィスを使用するということが市民の当然の権利として社会的には認められてないということである」

とし、

「支払い能力があり、支払う意志をもつ人だけが自動車を所有し、運転できる、という市場機構的な原則が貫かれるべき性質のものであるといえよう」(156ページ)

と述べているが、二酸化炭素排出の費用が高く見積もられるようになれば、自動車の運転者はより高額の費用の負担を求められかねない。

 もちろん、こうした状況を防ぐためにEV(電気自動車)や燃料電池車(FCV)の開発が進んでおり、その他の技術を通じた燃費の向上も加えて、自動車の二酸化炭素排出量は減りつつある。

 日本メーカーは今までさまざまな環境規制をクリアし、自動車の社会的費用の低減に努めてきた。温暖化対策についても今後の対応が注目される。

事故賠償方から見える人間観

夕方のラッシュアワーで渋滞する幹線道路(画像:写真AC)
夕方のラッシュアワーで渋滞する幹線道路(画像:写真AC)

 このように、地球温暖化という要素を除けば自動車の社会的費用は減っており、宇沢の警告は過去のものになったと考える人もいるかもしれないが、本書で提起された問題がすべて解決に向けっているわけではない。

 例えば、宇沢は交通事故の賠償において

「将来得られるであろう所得」

をもとにして計算するやり方を強く批判している。

 このようなやり方では、低所得者や老人や身体障害者が交通事故にあって死亡・負傷したときの被害額は小さく算出されてしまうとした上で、さらに次のように続けている。

「このような計測方法が得られるのは、人間を一つの生産要素とみなすからである。労働サーヴィスを提供して、生産活動をおこない、市場で評価された賃金報酬を受取る、という純粋に経済的な側面にのみ焦点を当てようとする考え方が、その背後には存在する。この考え方はじつは、人間のもつさまざまな社会的・文化的側面を捨象して、純粋に経済的な側面に考察を限定し、希少資源の効率的配分をひたすらに求めてきた新古典派の経済理論の基本的な性格を反映するものである」(83ページ)

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