ロシア人はなぜ「計画性」がないのか? ロシアトヨタ元社長が直面した旧社会主義国家の現実と、それを支えた奥田碩のリーダーシップ
ロシアトヨタの社長を2004年から2009年まで務めた人物の苦闘の記録。ロシアとは、いったいどのような国家なのか。
有望だったロシア市場
ウクライナの日本大使館に出向しているさなかに出向元だった長銀が破綻し、帰る場所をなくしていた著者に声をかけたのがトヨタだった。
1999(平成11)年にトヨタに入社した著者が実際にロシアに渡ったのは2004年の1月だが、当初からロシア市場開拓のための人材と期待されていたようだ。日本の中古車はロシアでは以前から人気があり、トヨタ車もランドクルーザーやカローラを中心に人気があった。
当初は商社経由の販売だったが、トヨタは2001年に有限会社トヨタモーターを設立し(本来ならロシアトヨタとしたいところだが、ロシアでは企業名に「ロシア」を用いることが禁じられていた。なお、本書ではわかりにくさを避けるために「ロシアトヨタ」と呼んでいる)、メーカーによる直接販売に切り替えた。それだけロシアという市場が有望だと考えられたのだ。
実際、原油高の影響もあってロシアの国内総生産(GDP)は2000年から2007年にかけて年平均で実質
「7.2%」
の高い成長を示した。そうしたなかで、著者は販売の拡大、さらに現地生産のめどを立てることを求められた。
著者は前任者の方針を受け継ぎ、
・商品ラインアップを絞る
・値引きを一切しない
・ディーラーに対して現金前払いを求める
という堅実な方針でロシア市場に望んだ。
在庫についても政情不安の恐れがあるロシアにはおかずに、フィンランドの港に在庫を置くスペースを確保し、フィンランドから車をロシアに送るという形で物流体制を整えた。