「線路に侵入 → SNS投稿 → 大炎上」はなぜ繰り返されるのか? 発信者と受信者が持つ「現代的欲求」の正体
線路に侵入した様子をSNSなどネット上にアップし、炎上する事例がたびたび起きる。なぜ、そうした事態が頻発するのだろうか。
部分だから「盛り」やすい
中島みゆきさんの「悪女」という歌をご存じだろうか。実際には男遊びなどしていないのに、友達に電話をかけて男と遊んでいるような芝居をするという歌だ。この曲がリリースされたのはインターネットやSNSなど影も形もない1982年だが、自分を盛って他の人からうらやましがられたい、という気持ちは今も昔も変わらないようである。
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「悪女」がかける電話もSNSも共通するのは、その人の「全体」ではなく、切り取られた「部分」を発信している点である。悪女は通話中だけ、ツイッターは140文字だけ、インスタグラムでは正方形の範囲だけ、TikTokは60秒(※初期の時間制限。今はもっと長くなっている)の動画だけを切り取っている。
全体を「盛る」のは大変なことだし、全体が充実しているのであれば、それはもはや「盛っている」とは言わないのかもしれない。一方、切り取られた「部分」は簡単に「盛る」ことができる。SNSがここまで普及したのは、人々に「盛りたい欲求」があったことと、盛れていることを端的にフィードバックしてくれる「いいね」などの仕掛けがあったからだろう。
では、これらの情報は、見ている側の心にはどのような影響を与えるのだろう。仮に情報の発信者側と受信者側の「実態」が同レベルだったとしても、発信者側は少なからず自分を「盛っている」わけだから、受信者側は相手がうらやましく見えると同時に、相対的に自分を下に見てしまう。つまり、「格差」が意識されるのだ。