ホンダジェットが5年連続で「小型ジェット機」トップの納入台数を達成できたワケ

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ホンダジェットは6年連続となる小型ジェット機カテゴリートップのデリバリー数を達成できなかった。2月23日のAir Data Newsが報じた。

YS-11のバトンを渡された東條輝雄

三菱重工のウェブサイト(画像:三菱重工)
三菱重工のウェブサイト(画像:三菱重工)

 東條輝雄は父の東條英機から、軍人ではなく技術者になることを勧められて三菱重工に入社した。堀越二郎の下、20代半ばでゼロ戦の強度設計などを担当し、程なく四式重爆撃機「飛龍」の設計を担当した。

 この飛龍は三菱がそれまでに生んだ軍用機が誇る長い航続距離に加え、急降下爆撃に耐える強靭な機体としっかりとした防弾装備などが施された。それは、まるでゼロ戦が戦中に米軍から暴かれた弱点を猛省して開発されたかのような機体であった。

 1948年に東條英機がA級戦犯として処刑される。その12年後、日本の航空業界の偉人たちから、東條輝雄は40代半ばにしてYS-11実機製作のバトンを渡されたのである。

「5人のサムライ」たちは、軍人・東條英機とは何らか面識があったと考えるのが自然であろう。堀越二郎らからの東條輝雄へのバトンは、A級戦犯とされた東條英機への十三回忌の手向けの花のようにも思われる。

 YS-11も、初飛行後はさまざまなトラブルやFAAの安全基準を満たせていないなどのハードルから、その実用化には難航を余儀なくされた。しかし、東條輝雄のチームは、その輝雄より年長の技術者と、初めて飛行機開発を経験する若手が一体となり、ひとりひとり着実に設計変更と改良を重ねた。

 結果、わずか3年で最大の鬼門であった片発離陸テストをクリアし、当初は困難とされたFAAの型式証明を得るに至ったのである。以来、YS-11は半世紀以上にわたり、日本のみならず世界中で中型旅客機として運用された。

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