第2次大戦、米英両雄パットン・モントゴメリーの「戦争指導」の違いをご存じか
第2次世界大戦での活躍

その後、モントゴメリーはインドや中近東などで勤務した後、1939年7月にイギリスに帰国。そこで第2次世界大戦を迎えた。
この大戦の勃発と共にモントゴメリーは、英国ヨーロッパ大陸派遣軍の師団長としてフランスに赴任するが、1940年春の西方戦線でのドイツ軍による「電撃戦」の結果、ダンケルクからの撤退を余儀なくされた。軍団長に昇進していた彼は、この撤退作戦を見事に成功させ、高く評価された。
1942年8月、モントゴメリーは北アフリカ戦線で第8軍司令官に任命された。この北アフリカの戦いにおいて彼は、有名なエル・アラメインの戦い、さらにはこの戦いの前哨戦と位置付けられるアラム・ハルファの戦いで成功を収め、最終的には、「砂漠の狐(きつね)」と呼ばれたエルウィン・ロンメル指揮下のドイツ軍を敗北へと追い込んだ。
アラム・ハルファの戦いではモントゴメリーの堅実な防御作戦、とりわけ敵のロジスティクスの線(ライン)に対する攻撃が成功。その後のエル・アラメインの戦いでは、十分な物資と要員をそろえた後、攻勢に転じて決定的な勝利を収めた。
その後、彼は1943年、連合国軍によるシチリア上陸作戦に参加したが、この時点からパットンとの対立、つまりライバル関係が始まることになる。
この作戦の終了後、モントゴメリーはノルマンディー上陸作戦の準備のためイギリスへ帰国した。実際の上陸作戦で彼は、その計画があまりにも厳密過ぎ、あまりにも消極的過ぎる、と多くの批判を浴びることになった。
その後のパリ解放などヨーロッパ大陸での戦いは、バルジの戦いなど一部でドイツ軍による反攻が見られた反面、基本的には連合国軍の快進撃が続いた。そうした中、モントゴメリーはいわゆる北方重視戦略を唱え、その結果が1944年9月の「マーケット・ガーデン」作戦へとつながったが、これは完全な失敗に終わった。だが、この作戦は90%成功したと彼が「強弁」したことは、やはり彼に対する評価を低下させた。
加えて、モントゴメリーが『回顧録』など幾つかの著書で、第2次世界大戦ヨーロッパ戦線の連合国軍最高司令官であったドワイト・D・アイゼンハワーのリーダーシップを疑問視し、彼の指導力の欠如が戦いを不必要に長引かせたと批判したことで、とりわけアメリカ軍人および同国歴史家からの厳しい非難にさらされることになった。