第2次大戦、米英両雄パットン・モントゴメリーの「戦争指導」の違いをご存じか
モントゴメリー――石橋をたたいても渡らない将軍?

バーナード・モントゴメリーは1887年に生まれ、1976年に死去したイギリス陸軍元帥である。彼に授与された称号は「初代アラメインのモントゴメリー子爵」であるが、ここに彼の人生において、後述するエル・アラメインの戦いがいかに重要であったか示されている。ちなみに彼は、サンドハースト王立陸軍士官学校での幹部候補生時代、いわゆる問題児として何度も退学寸前まで追い込まれたという。
モントゴメリーは第1次世界大戦の戦場を実体験しており、そこでの反省から第2次世界大戦では、十分な準備が整うまでは決して作戦を実施しないとの方針を貫いた。その結果、一部で批判を受けたものの、現実の戦場で確実に勝利を積み重ね、その能力が認められた。指揮下の兵士の士気が高かったのも、彼の戦争指導のひとつの特徴である。実際、彼は、第2次世界大戦で最も成功した「防勢将軍」であったと評価されている。
1914年に第1次世界大戦が勃発すると、彼は直ちにヨーロッパ西部戦線、フランスの最前線で戦った。その際、敵の銃撃によって瀕死(ひんし)の重傷を負い、イギリスに帰国している。
翌年の1915年を母国で過ごしたモントゴメリーは、1916年には再び西部戦線フランスでの戦いに参加したが、その中でも1917年春のアラスの戦い、その後のパシャンデールの戦い(第3次イープルの戦い)は、大規模かつ極めて凄惨(せいさん)なものとなった。事実、彼は自らの『回顧録』で、この大戦の「嘆かわしいほどの犠牲者数は私を大いに失望させた」と述べている。
なお、この大戦でモントゴメリーが指揮官として実施した、(1)訓練(2)幾度にもわたる演習、さらには(3)歩兵・砲兵・工兵の統合を追求するやり方、が最も効率的に目的を達し、かつ不必要な犠牲を出さなかった戦い方として歴史家に高く評価されている。
また、1926年に彼はイギリス陸軍大学教官となり、防御のための方策について徹底的に研究および教育を実施したが、これが後年の第2次世界大戦で生かされることになる。