第2次大戦、米英両雄パットン・モントゴメリーの「戦争指導」の違いをご存じか

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第2次世界大戦ヨーロッパ戦線の戦いで活躍した代表的な軍人、アメリカのジョージ・S・パットンとイギリスのバーナード・モントゴメリーについて、ロジスティクスを中心とした戦争指導を比較する。

第2次世界大戦――活躍の場所

ノルマンディー上陸作戦。1944年6月6日撮影(画像:AFP=時事)
ノルマンディー上陸作戦。1944年6月6日撮影(画像:AFP=時事)

 第2次世界大戦でパットンは北アフリカでの作戦に参加した後、シチリア上陸作戦では、主攻であるイギリスのバーナード・モントゴメリーの部隊を出し抜く形で、この島を南北に縦断することに成功した。

 興味深いことに、この頃からドイツ軍は常にパットンの動向に注目していたが、それを逆手に取ったのが、ノルマンディー上陸作戦に際してのパットンの囮(おとり)部隊の「活躍」である。

 彼はノルマンディー上陸作戦そのものには参加できなかったが、その後のフランス本土での作戦では、その能力を十分に発揮した。パットン指揮下のアメリカ第3軍は、基本的にはあまり厚遇されず、補給物資の割り当てなどロジスティクスの側面でも優先されなかったにもかかわらず、短期間でフランス解放の戦いにおいて勝利を重ね、まさに「電撃戦」の名に値する進撃に成功した。彼の「ガソリンがなくなるまで追撃を継続せよ」との命令はあまりにも有名である。

 なお、イスラエルの歴史家マーチン・ファン・クレフェルトは『補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』の第7章で、パットンなどが強く唱えた1944年秋のいわゆる「ルールへの進撃」の可能性についてロジスティクスの側面から検討した後、この作戦の実施は決して不可能ではなかったとの結論を下している。

 だが、パットンはその極端な発言や態度が原因となり、アメリカ軍内はもとより、同盟国であるイギリス軍とも摩擦や対立を引き起こした。彼は、アメリカ国民に人気の高い軍人であったことが災いし、常にメディアの注目を集める存在であった。

 その中でも彼が、シチリア上陸作戦の際に2度にわたって野戦病院の兵士を殴打した(実際には、兵士の頭を手袋でたたいた)ことは大きなスキャンダルとなり、一時期は更迭されてしまう。

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