「JAL = 飛行機」のイメージは大間違い! かつてはなんとリニアモーターカーを開発していた
つくば科学万博で注目も開発頓挫
このように、1970年代後半から1980年代にかけて、リニアは「10年もたたないうちに建設されるもの」と考えられていた。しかし、そうはならなかった。
JALは1985(昭和60)年、HSSTをつくば科学万博(同年3月から9月まで)に出展し、時速30kmながら運航している。しかしこの時点で、JALでの開発熱は冷めていた。開発費はもちろんのこと、建設費や用地買収費がかさみ、一企業での開発が困難と見られていたからだ。
実際、HSSTが都心と成田空港を結ぶ計画は疑わしく、具体的な路線のルートも明確に示されなかった。当時の報道では
「都心と成田空港を結ぶ高速道路沿いに建設する」
と書かれたものもあるが、実現可能だったとは到底思えない。
また、つくば科学万博の開催中に発生した日航機墜落事故(8月)が決定打となり、開発は完全に息の根を止められた。
これを受けて、同社でHSST開発に従事していた研究員らは独立し、エイチ・エス・エス・ティを設立し、以降も研究を続けた。
研究成果は愛知万博で開花
時はたち、愛知県と岐阜県を基盤とする名古屋鉄道がHSSTに目を付けた。
同社はHSSTの実用化を目指し、1989(平成元)年に中部エス・エス・ティ開発を設立した。その後、1992年にはエイチ・エス・エス・ティに増資する形で、開発の主導権を手に入れた。ちなみに、名古屋鉄道の技術者は、HSSTが最先端技術ではなく既存技術で設計されおり、容易に理解できることに驚いたという。
名古屋鉄道と愛知県は、HSSTが2005年開催予定の愛知万博のアクセス路線として実用化されることを期待していた。こうして、愛知万博という後押しを受けてHSSTの実用化は実現した。
万博開催後は、愛知高速交通東部丘陵線として現在も営業運転が続けられている。磁気浮上式で日本初のリニア路線となった同路線だが、いまのところ同様の技術を使った路線は計画されていない。
当初、空港アクセスの改善を目的として開発が進んだように、HSSTは中距離間のアクセスを前提として設計されている。しかし、人口増と都市の拡大が一段落した現在の日本では、その利点は十分には生かし切れていない。もしも、HSSTが早期に成田空港に実現していたら、私たちはまた違った未来を見たのかもしれない。