関東大震災100年 「鉄道」が果たした消防・救助活動への大きな役割を知っているか
消火活動を妨げたガソリン不足
こうしたなかで東京を襲ったのが大火災だった。東京市内では市域の43%にあたる34平方キロメートルが焼けたが、これは例えば東京大空襲の13平方キロメートルを大きく上回っており、いかに巨大な火災が起こったかがわかる。
東京は江戸時代から数々の大火に見舞われていたが、その火消しを担ったのが、江戸の町火消しであり、それを明治になって引き継いだ消防組だった。消防組はとび職人が中心で、彼らを率いた警視庁は、建物の破壊を主とし注水を従とする伝統的なやり方にこだわる消防組の統制に苦労したという。
しかし、新しい技術の導入とともに消防の体制は大きく変わっていく。1887(明治20)年には馬が引く蒸気ポンプが常勤職員によって操作されるようになり、さらに1917(大正6)年から東京ではガソリンで動くポンプ車が導入された。一方、消防組が使用する腕用ポンプは1918年に廃止され、それとともに消防組の役割は縮小されたのだ。
ただし、関東大震災においてポンプ車は思ったような活躍はできなかった。まず、地震によって水道が破損していまい、特に高地ではポンプ車が使うべき水を確保できなかった。ポンプ車の活動は小河川や池などの近くや下水などを利用できる場所に限られてしまった。
さらにポンプ車による消火活動を妨げたのがガソリンの不足だった。1日の夜をすぎるとガソリン不足で稼働できなくなるポンプ車が続出し、多くのポンプ車が消火活動を断念せざるを得なかったという。
神田和泉町など、延焼を食い止めた地域では、住民の決死の働きとともに蒸気ポンプが活躍しており、ポンプ車が十分に稼働できていたならば、延焼を食い止めることができた地域はもう少し増えたかもしれない。
消防もそうだが、医療においても圧倒的にキャパシティーオーバーの状況だった。
現在の両国国技館や江戸東京博物館の北側一帯にあった本所被服廠跡では、火災によってこの場所と周辺で4万4000人以上が亡くなったとされている。当然ながら負傷者も多数出たが、これに対応できる病院はなかった。