ローカル線の御殿場線、実はかつて「東海道本線」だった! 単線化から80年 悲運の歴史をたどる
トンネル開通後「御殿場線」に
丹那トンネルの工事は、1918(大正7)年から開始。地質の関係から工事を始めてからすぐに大量の湧き水が発生し、鉄道当局を悩ませることになった。
予想以上の難工事になった丹那トンネルは掘削作業中に湧き水が噴出し、トンネル全体が浸水して作業員が溺死する事故や、掘削時に岩盤が崩落して作業員が圧死する事故などが起きている。
多くの犠牲者を出した丹那トンネルは、1933(昭和8)年に完成。翌年から列車が走り始めた。丹那トンネルの完成により、国府津駅から熱海駅を経て沼津駅へと至るルートが新たに東海道本線を襲名。そして、国府津駅~御殿場駅~沼津駅のルートは御殿場線へと名称を改めることになった。
日本を代表する幹線の東海道本線から御殿場線へと名称を変更したのだから、沿線の人々は落胆しただろう。実際、御殿場線へと切り替わったことで、同線を走る列車本数は急減。それに伴い、駅前からにぎわいが少しずつ消えていく。
戦争激化で複線から単線へ
これだけでも御殿場線は「悲運の路線」といえるが、御殿場線の不遇はそれだけで終わらない。
太平洋戦争が激化していた1943(昭和18)年、政府は金属供出を目的に、全国で利用者が少ない路線を不要不急線に指定。指定された路線は線路が撤去された。
線路が撤去されれば、当然ながら列車を走らせることができない。いわば、不要不急線の指定は鉄道にとって“死刑宣告”だった。
御殿場線は同年、不要不急線に指定された。幸いなことに御殿場線は廃線には至らなかったが、それでも複線だった線路の片側を剥がされた。強制的に単線化されたことにより、御殿場線は物理的にも列車本数を増やすことができなくなった。
開業当初、日本を代表する東海道本線として華々しい扱いを受けていた御殿場線は、ここから衰退が始まる。終戦後、御殿場線の線路が複線へと戻されることはなかった。そして、現在も御殿場線は単線のままになっている。