阪急電鉄が生んだ「宝塚歌劇団」 誕生の背景にはファミリー層の郊外誘致策があった!

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現在の阪急電鉄によって創設された宝塚歌劇団。そのルーツをたどると興味深い事実があった。

宝塚の先駆性

宝塚歌劇団のウェブサイト(画像:宝塚歌劇団)
宝塚歌劇団のウェブサイト(画像:宝塚歌劇団)

 ファミリー向けをうたう宝塚は、演じる少女たちを「女優」や「芸者」ではなく、あくまで「生徒」であると位置づけた。当時の語感では、「女優」は家庭的なイメージからは程遠く、しばしば扇情的でスキャンダラスな存在と見なされていたからである。

 小林一三は生徒たちに花嫁修業のように音楽や踊りを学ばせ、退団後の少女たちにも、芸術的素養のある家庭の妻となり、母となることを期待した。ちなみに、学校という制度とイメージをモデルにした事業は、箕面有馬電軌所有の豊中グラウンドから始まり「国民的」な行事となった甲子園野球にも取り入れられてもいる。

 事業拡大のなかで、1921(大正10)年には専属オーケストラが設置され、1924年には4000人収容の大劇場も落成した。NHK交響楽団のようなプロのオーケストラが日本で成立するのは1920年代半ばのことであるから、宝塚がいかに先駆けていたかがわかる。

 当時の日本社会において、西洋音楽の創作・発表の場はごくわずかしかなかったため、定期的な公演機会のある宝塚は、腕を試したい気鋭の芸術家にとって、極めて魅力的な職場だった。

宝塚が特異な発展を遂げた理由

阪急電鉄の創業者「小林一三」(画像:阪急電鉄)
阪急電鉄の創業者「小林一三」(画像:阪急電鉄)

 以上のようにして、小林一三は、更地のうえに劇団と大劇場を創設し、生活環境の創出や住民誘致を通じて歌劇を楽しむ家族という観客層さえも生み出していった。

 当時の観衆のひとりは、

「僕は歌劇は宝塚みたいな田舎に芽生したればこそ今日の発達をなし得たのだと思ひます。宝塚にあつたればこそ!」(金子生「高声低声」『歌劇』1918年月)

との所感を記した。

 少女たちの歌劇は、近世以来の興行慣行の根づいている大阪のような都市ではなく、鉄道会社が新天地として開発した「田舎に芽生した」ものだったから、特異な発展を遂げることができたのである。

 こうした一連の変容を可能にしたのは、都市空間を再編する鉄道というコミュニケーション(交通)のテクノロジーと資本にほかならなかった。こうして1914(大正3)年の初公演以来、世界でも類例のない女性キャストだけの歌劇団として、宝塚は100年を超える歴史を刻んでいくのである。

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