阪急電鉄が生んだ「宝塚歌劇団」 誕生の背景にはファミリー層の郊外誘致策があった!
宝塚の誕生
小林一三は、家族向け戦略に確かな手応えを感じながら、1911(明治44)年5月、宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を新設、翌年には洋館の娯楽場「パラダイス」を開業していく。
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宝塚新温泉は、湯治客や温泉芸者が集まる旧来の温泉街とは異なり、しゃれた建物、大理石の浴場、婦人化粧室、運動場、珍しい機械を導入したアミューズメント施設などを売りにしていた。ファミリー向けの誘客策を徹底することで、宝塚は、家族連れの人気観光地として急成長した。
次なる一手として、小林が企画したのが、このパラダイス劇場を利用した宝塚新温泉の余興だった。これこそが、現在の宝塚歌劇団のルーツであった。
宝塚新温泉では、1913(大正2)年7月、余興として少女に唱歌を披露させることが計画された。第1期生として小学校を出たばかりの少女など16人が採用され、翌年4月には第1回記念公演が開催された。このときの演目には北村季晴作曲「ドンブラコ」などが選ばれたが、タイトルからもわかるように昔話「桃太郎」の翻案であった。人々になじみ深いお伽(とぎ)話のストーリーが、当時はまだ目新しい「ドレミ」やピアノなど西洋音楽によって歌われ上演されることになったのである。
その後も宝塚では舌切雀、中将姫、猿蟹(さるかに)合戦、花咲爺、瘤(こぶ)取物語、文福茶釜などのよく知られたお伽話や歴史物語が舞台化されていった。それは豪華絢爛(けんらん)なレビューというよりも、学芸会のような演劇にずっと近く、当時は「お伽歌劇」と呼ばれていた。
お伽歌劇はいかにも「宝塚らしい」ものとして受け入れられ、家族客たちのあいだで人気を博していった。宝塚のお伽歌劇は、他の劇団にはない珍しい特徴であるとされ、
・宝塚情緒
・宝塚型
・宝塚リズム
などと呼び習わされた。
少女たちの歌劇は大いに評判を集め、その事業は急速に拡大していった。1919年には宝塚音楽歌劇学校が創立され、文部省(現・文部科学省)の認可を得て学校という制度とイメージが事業のベースに組み込まれていった。