新幹線&リニアの登場で、私たちは幸せになったのか? 高速移動が奪う「情緒的体験」、いま一度再考を
失われゆく「体験の豊かさ」
一方で、移動に伴う体験は、高速化すればするほど豊かさを失っていく。世界はどんどん小さくなるので、目的地も「一生に一度訪れるかどうかの特別な場所」から「またいつでも来られるありふれた場所」に変わっていき、一期一会の体験に感覚を研ぎ澄ませようとも思わなくなる。
人の行き来が活発になったせいで、全国どこの街にも判で押したように同じチェーン店が立ち並び、実際に「ありふれた場所」に変わっているような気もする。自動化や情報化が進むにつれ、地元の人とのコミュニケーションも不要になる。仕事以外では一言もしゃべらずに旅程を終えることも十分に可能である。
松尾芭蕉が交通網や情報網の発達した現代に生まれていたら、「奥の細道」は書けなかっただろう。新幹線が青函トンネルを行き交う時代には、連絡船からはぐれそうなカモメを見つけて泣くこともない。ここ最近、旅を題材にした新曲をほとんど聞かなくなったこととも、無関係ではなさそうだ。映画やアニメの主人公を成長させるような旅は、ファンタジーの中か、現代と異なる時代設定でしか描かれなくなっているようにも思える。
コロナ禍は、それまで先進的な一部の人や組織しか使っていなかったオンライン会議を全世界に一気に広めた。もはや移動時間は「ゼロ」である。空間を超えた会議が朝から晩まで詰め込まれ、生産性はさらに上がり、移動に伴う体験は消滅した。仕事はそれで良いのかもしれないが、便利さを一度経験してしまうと、後戻りは難しい。高速移動や通信のインフラは出来上がっているので、プライベートも同じように侵食されていく。利便性と引き換えに失ったものは大きいが、取り戻すことはもはやできない。
速く短い時間で移動できることは、例えば生産性に限定すれば良いことである。だから筆者(島崎敢、心理学者)は高速化に反対したり、批判したりするつもりはない。便利さの恩恵も受けているし、後戻りはできないと思う。
しかし、移動に伴う私たちの体験の豊かさは、生産性と違って、利便性と反比例しているようだ。だから今よりずっと不便で、ずっと豊かな旅をしていた昔の人が、楽しそうでうらやましく思えるのだ。そんなことを考えながら、今日も日帰り出張の新幹線に乗っている。