臨海地下鉄に漂う疑念 構想自体は「90年前」から存在、しかし何度も立ち消えになっていた!
計画が頓挫したワケ

ところが計画は突然頓挫する。なぜなら市会の決議後、市会議員たちの間で問題点が共有されるようになったからだ。問題点は実にシンプル。当時の臨海部は、東京のなかであまりにも
「街外れ」
すぎたのだった。
東京市は、五輪と万博を前に値上がりするであろう公有地を売却して、建設費用に充てることをもくろんでいた。ところが土地の価格は上がらなかった。当時、都心から月島四号地に向かう交通手段は、渡し船のみだった。わずかに1933(昭和8)年に勝鬨橋が着工したのみで、佃大橋も築地大橋もなく、交通事情は悪かった。当時の市会はこの計画に対し、
「市長は百年の大計というが、木更津あたりまで埋め立てない限り向こう100年どころか300年経っても月島が東京の中心になることはあり得ない」
「月島は検疫所や税関を設置して玄関になるかも知れないが、東京の中心にはならない」
「板橋からだと車で2時間以上かかるところにある市庁舎がどうして<吾ラノ殿堂>になるのか」
という批判が繰り広げられ、賛成多数から一転、計画の撤回が求める声が強まっている。
実際、当時の月島の様子を記録した山本兼吉の『月島発展史』(京橋月島新聞社、1940年)は移転問題に触れ、
「大東京を統括する市役所の位置としては一應邊陬(国の果て、辺境)の感があるが」
と記している。住民も「こんな街外れに市役所を設置するのか」と信じがたかったようだ。結局、批判が殺到したことで建設計画は雲散霧消した。その後も、臨海部、とりわけ晴海の発展のために鉄道計画が浮上することはあった。
用地返還後に開通した晴海線

「今度こそ」と期待が高まったのは、戦後、米軍に接収され飛行場として利用されていた晴海の一部(現在の晴海フラッグ周辺)が、1957(昭和32)年に返還されたことだった。
返還とともに、東京都は晴海一帯を国際埠頭(ふとう)として開発する計画を進展させている。このときに建設されたのが、同年に開通した「晴海線」だった。
晴海線は東京都港湾局が貨物専用線として所有していた路線で、越中島と晴海との間を結んでいた。東京都はこれを単なる貨物専用線で終わらせるつもりはなかった(ちなみに現在、晴海と豊洲との間に晴海橋梁が残っており、遊歩道として整備中だ)。
本来の計画で、晴海線は隅田川を越えて築地市場方面へ延伸。汐留、新橋と接続し旅客も扱うことが予定されていた。