臨海地下鉄に漂う疑念 構想自体は「90年前」から存在、しかし何度も立ち消えになっていた!

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東京都が発表した都心・臨海地下鉄新線構想だが、本当に成功するのか。都心と臨海部をつなぐ話は以前から何度も立ち消えになっているのだ。

約90年前に既に考えられていた路線

「臨海地下鉄」新線のルート(画像:Merkmal編集部)
「臨海地下鉄」新線のルート(画像:Merkmal編集部)

 東京都が11月25日、東京駅付近から臨海部(晴海・有明エリア)を結ぶ地下鉄新線の計画案を発表した。開業は2040年頃を目指すという。JR東日本の羽田空港アクセス線などとの接続も検討されており、期待が高まっている。

 ただ残念ながら、完成時には臨海部の人口増ピークをすぎる可能性もあるため、かなり出遅れた計画といえる。その出遅れ感たるや、都心と臨海部を結ぶ鉄道が必要だと考えられた最初の時期から数えて、実に

「約90年」

も遅れているのだ。今回はこれまでの臨海部の開発計画を踏まえて、なぜ今まで鉄道が建設されなかったのかを考えてみたい。

舞い込んだ東京市庁舎の移転計画

中央区の晴海エリア(画像:(C)Google)
中央区の晴海エリア(画像:(C)Google)

 今回の計画案で、最も期待されているのが中央区の晴海エリアだ。タワーマンションが乱立し、五輪選手村の跡地を利用した晴海フラッグも整備されていることから、人口増が予測されているが、これまで鉄道が通っていなかった。

 しかし、これまで通す計画が皆無だったわけではない。晴海の鉄道計画は不幸なことに、戦前から浮上しては消えるという歴史が繰り返されてきたのだった。

 最初に晴海へ鉄道計画が浮上したのは、東京市庁舎の移転計画が持ち上がったときだ。それは同エリアが埋め立てから間もなく、

「月島四号地」

と呼ばれていた時代だ。

 戦前の東京の自治体行政は「東京府 → 東京市 → 区」の構成で、東京市庁舎は有楽町にあった東京府庁舎に間借りしていた。これが手狭だったことから、1922(大正11)年の東京市会による「市総合庁舎新築二関スル建議」を経て、1933(昭和8)年に月島四号地に市庁舎を建設することが決定した。

 月島四号地は1931年に完成したばかりの埋め立て地で、広大な土地を使って大規模な庁舎の建設が可能だった。また、1940年には

・東京五輪
・東京万博

がこの埋め立て地で開催されることも決定しており、今後の発展が大いに期待されていた。

 移転計画は期待を持って進められ、1934年にはコンペ「東京市庁舎建築懸賞競技」が実施された。171通の応募のなかから1等賞に選ばれたのは、宮地二郎だった。そして、庁舎デザインも決定した。

 この時期に作成された「東京市庁建設敷地の決定」によると、建設予定地は現在の晴海トリトンの場所だった。白亜の巨大な市庁舎の前には、銀座方面から延びる地下鉄が建設されることも書かれている。期待はふくらみ、1933年の東京市会で反対は144人中わずか12人にすぎなかった。