国鉄はなぜ民営化されたのか? 経営効率化か、はたまた組合つぶしか
生産性改善と国鉄労組
他方、国鉄を取り巻く状況は厳しかった。モータリゼーションの発展によって、道路網が整備され、鉄道からトラックへと輸送の中心が移っていく。しかも、そうした状況に拍車をかけたのは皮肉なことに国鉄労組の行動だった。
1960年代以降、国鉄は赤字に転落し、生産性改善の必要性が叫ばれた。そこで国鉄が掲げたのがマル生運動だ。
当時の国鉄の職場は荒廃しており、生産性が低下しがちとされていた。こうしたなかで国鉄は生産性向上を掲げ、日本生産性本部の協力を得て、マル生運動を進めた。しかし、この運動は
・国鉄労働組合(国労)
・国鉄動力車労働組合(動労)
・全逓信労働組合(全逓)
といった労働組合の反発を招き、結局は失敗に終わった。国鉄の生産性低下にとどめを刺したのが、順法闘争やスト権ストといった国鉄労組の活動だった。こうした活動の結果、国鉄は一般国民の支持を失っていくことになる。
先ほども紹介したように、当時は首都圏における輸送改善は急務であり、通勤客は過酷な状況での通勤を余儀なくされていた。そこへ国鉄労組が順法闘争やスト権ストといった形で輸送を妨害したために、ダイヤの乱れや混雑が恒常化することになる。一方、国鉄職員の規律違反や飲酒乗車による事故などが発生し、国民の国鉄に対する信頼は失墜した。
順法闘争は上尾事件や首都圏国電暴動(ともに1973年)といった乗客の暴動をも招く事態となった。そして、輸送が着実に行われない国鉄に、貨物を委ねていた顧客も見切りをつけ始めた。そして、鉄道からトラックへのシフトが加速するという国鉄離れを生む結果となった。
最後の選択肢は分割民営化
こうしたなかで、国鉄の改善に向けた動きが進むことになった。ローカル線維持に地方交通線特別交付金が出されることになったり、日本鉄道建設公団の発足以降はローカル線建設は国費で行われたりするようになった。しかし、いずれも国鉄の抜本的改善にはつながらなかった。
1980(昭和55)年に国鉄再建法が成立し、人員削減や新規路線建設凍結などが盛り込まれた。その一方で、鈴木善幸内閣が設置した第2次臨時行政調査会(第2次臨調)は国鉄改革を議論し、委員のなかには分割民営化を前提にした発言を行うものも出始めた。最終的には分割民営化を行うということで決着することとなった。
分割民営化によって、民営化会社の経営改善を図りつつ、巨額の累積債務をJR各社だけでなく、国鉄資産の売却、税金投入によって処理することで、鉄道事業を改善しようというのが目的だった。他方、中曽根は国鉄分割民営化の目的は
「労働組合の解体」
だったと語っている。