「桃鉄」のルーツは明治時代だった? 近代化が生み出した鉄道と美術の融合、鉄道開業150年で振り返る
鉄道と美術の関連性
2022年は鉄道開業150年という節目にあたる。鉄道業界は数年前から、150年の記念事業を準備してきた。しかし、2020年初頭から新型コロナウイルスの感染が拡大。いまだ完全に収束したとは言い切れない状況が続き、記念事業も規模を縮小している。
コロナ禍もあり、鉄道業界は手放しで開業150年を祝えるムードになっていない。また、少子高齢化や過疎化、モータリゼーションの進展などによってローカル線の存廃問題が真実味を帯びて語られるようになっている。鉄道開業150年を迎える2022年は、後世から振り返った際に“鉄道の終わりの始まり”として記録されるかもしれない状況にある。
鉄道と同じく150年という節目を迎えたのが「美術」という言葉だ。それまで書画と呼ばれていたアートは西洋文化の流入とともに適した言葉が模索されるようになり、新たに美術という語句が考案された。翌年、オーストリアのウィーンで開催された万博には日本も参加したが、その出品目録には美術という語句が記述されている。
一見すると、鉄道と美術に関連性がないように思うだろう。しかし、当時の明治新政府は1870(明治3)年に建築・土木を統括する工部省を設立。工部省は主に公共工事を担った。工部省が鉄道の建設や維持管理、運行業務、鉄道運行のための人材育成などを所管することは誰の目にも理解できる。
他方、美術も工部省が所管分野だった。これは、現代の価値観からは理解しづらいので説明が必要だろう。西洋からもたらされた美術という概念だったが、社会が変わったからといって人々の考え方がすぐに変わるわけではない、明治新政府は西洋からの文化や技術を積極的に取り入れていくが、その一方で人々の意識を醸成することにも心を砕いた。
1876年、政府は工部省が所管する工部美術学校を開設。同校には画学科と彫刻科の2学科が設置された。同校の目的は、あくまでも西洋美術の普及と人材育成を主眼にしていたので、カリキュラムに日本美術はなかった。そのため、学生たちは画学科では日本画を教えられず、彫刻科でも木彫りの授業はなかった。
国費を投じて開設した学校なのに、日本で培われてきた美術を教えない。そうした教育内容から旧来の美術家たちからの反発も強くあった。そのため、工部美術学校は1883年に廃校に追い込まれる。西洋美術を教える学校は頓挫したが、工部省というつながりによって結びついた鉄道と美術は、その後も密接な関係を続けていく。