戦争のプロはロジスティクスを語り、素人は戦略を語る 「軍事ロジスティクス」から考える世界戦争史

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ウクライナ侵攻以降、一般的に知られるようになった「軍事ロジスティクス」。今回は軍事ロジスティクスから世界戦争史を考える。

太平洋戦争のロジスティクス

マーチン・ファン・クレフェルト『増補新版 補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』(画像:中央公論新社)
マーチン・ファン・クレフェルト『増補新版 補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』(画像:中央公論新社)

 太平洋戦争(1941~45年)で、日本海軍がいわゆる艦隊決戦との構想を捨て補給(戦地への補給および日本本土への物資の移送)にその部隊の多く――主力ではないものの――を投入するようになったのは、実に1943年末になってからだ。「海上護衛総司令部」の創設であるが、その間、アメリカ軍によって多数の日本軍兵士は、まさに飢え死にと溺死を余儀なくされた。「飢え死に」と「水没」は、この戦争における日本軍の犠牲者の最大の原因だったとされる。

 太平洋戦争における日本軍のロジスティクスのあり方を考えるための事例としてしばしば取り上げられるのが、ガダルカナルの戦い(1942年8月~1943年2月)とインパール作戦(1944年3~7月)だ。前者の戦いでの失敗でこの島は「餓島」とやゆされ、後者の戦いでは、ロジスティクスの観点から実施不可能との意見が一部の陸軍参謀によって具申されたが、これがいわば黙殺された事実は広く知られている。

 また、このインパール作戦では作戦中止後の撤退段階で最大の犠牲者が出ており、全ての戦死者数の約6割とされる。日本軍が撤退した道は、「白骨街道」と呼ばれた。この作戦ではまた、マラリアや赤痢などに対する軍事衛生への意識の欠如が著しく、ここでも病死と飢え死にが犠牲者の多くを占めた。ここには、軍隊の撤退をめぐる問題、いわゆる「出口戦略」の困難さもうかがい知ることができる。

 これとは対照的にイギリス軍は、当初のビルマ(現在のミャンマー)からの敗走といった苦い経験を踏まえ、インドとビルマの国境地帯の部隊に対しては、大量の補給物資を備蓄し、日本軍を消耗戦争へと引きずり込む方針を用いた。彼らは日本側のロジスティクスの貧弱さを見抜いていたのだ。

 例えばこの戦線でイギリス軍は、陸上での移動および補給が極めて困難だったため、航空機を活用した。オード・チャールズ・ウィンゲート指揮下のイギリス軍部隊――「チンディット」として知られる――が1943年にインドからビルマ北部へと侵入し、日本軍の背後で実施した作戦はその代表的な事例だ。ここでは、輸送機およびグライダーを多数用いて、約3000人の空挺(くうてい)部隊が日本軍の背後に降下した(翌年の同様の作戦では約9000人)。併せて、大規模な空中補給も実施された。

 こうしたウィンゲートの後方かく乱が成功した要因として、日本軍がビルマ戦線で広く分散していた上にほとんど予備兵力を有せず、さらには、その補給線(ライン)が極めて貧弱だった事実が挙げられる。日本軍の弱点だったロジスティクスが狙われたのだ。

 イスラエルの歴史家マーチン・ファン・クレフェルトがその主著『補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』(中央公論新社、2022年)で鋭く指摘したように、やはり戦争という仕事の90%はロジスティクスをめぐる問題であるのかもしれない。

 確認するが、ロジスティクスは戦争あるいは軍事作戦の根幹なのであり、決して「後方」などではないのだ。

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