「障害者をバスに乗せろ!」 乗車拒否貫くバス会社と対峙、バリアフリー化の礎を作った「川崎バス闘争」とは何か
いまだ使い勝手が悪いバリアフリーも

現在の公共交通機関では、バリアフリー設備が当たり前の存在になっている。駅でエレベーターなどを見かけるのはしょっちゅうだ。しかし、決して十分とはいえない。設備が比較的整っている大都市でも、「あるだけマシ」程度の、貧弱かつ不便なものしかないところは少なくない。
東京メトロ東西線と都営大江戸線が乗り入れる、門前仲町駅(東京都江東区)を例に挙げよう。両線の乗り換えは、徒歩なら階段やエレベーターですんなりと行える。ところがエレベーターを利用する場合、事情は異なる。一度改札から出て、大回りしなければ乗り換えができないのだ。
こうした、
「バリアフリー設備は存在しているが、使い勝手が悪い」
という公共交通機関は少なくない。
しかし、そうした設備ですらかつてはかなわない時代があった。当たり前に設置されるようになった背景には、障害のある当事者による戦いの歴史があった。
障害者団体が起こした社会運動

障害のある人でも公共交通機関を自由に利用できる――。そんな当たり前のことを提起したのが、脳性マヒ者による運動団体「青い芝の会」による社会運動「川崎バス闘争」だ。
きっかけは、当時相次いでいた車いす利用者へのバスの「乗車拒否」だった。かつて、バスには車いすを固定する設備がなく、運転手の「裁量」で乗車させていた。しかし、拒否されるケースも多かった。
運動の舞台となった川崎市では1976(昭和51)年、運行している川崎市営バスと東急バスが、バリアフリー設備を設けるのではなく、車いすによる乗車を「規制」する方向にかじを切った。
・固定設備がない
・非常口をふさいでしまう
・降車口からの乗降はできない
などを理由に
「車いすをたたんで乗降口から乗る」
「乗車中は座席に着席し介護者を付けること」
などを車いす利用者に求めた。実質、車いす利用者を「乗車させない」規則だった。
同様の乗車拒否は、全国各地で起きていた。当事者のみならず、交通労働者の労働組合である全日本交通運輸労働組合協議会でも、運輸省に対して福祉行政の一環として国の責任で問題を解決すべきとして交渉している。
しかし、問題は遅々として進まなかった。