山深い土地で発展! 江戸時代の林業・運輸に大きな貢献をした「木曽式運材法」をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(4)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

木曽三川の流域で発展した川湊

飛騨国(画像:岐阜県図書館)
飛騨国(画像:岐阜県図書館)

 慶長の築城ラッシュから寛文期(1661~1673年)の頃は、木曽川に加えて長良川、揖斐(いび)川の木曽三川(さんせん)で同じ方法を採用し、木曽の運材は最盛期を迎えた。

 隣国の飛騨(現在の岐阜県)からも、伐採した木材が木曽式で益田川(ましたがわ。現在は飛騨川と呼ぶ)を下った。益田川は木曽川の支流のため、合流してからは同じルートだった。終着地は伊勢湾の桑名や熱田の湊(みなと)である。ここには巨大な貯木場があり、尾張藩の直轄だった。同藩は江戸時代を通じて、尾張(愛知県西部)・木曽・美濃(岐阜県南部)に及ぶ広域経済圏を形成し、木曽三川の木材運搬を監督・管理するのである。

 問題は乱伐だった。慶長の築城ラッシュ後も、明暦の大火(1657年)や万治の名古屋大火(1660年)など、大規模火災が頻発し、復興のために大量の木を伐採したことが原因で、資源の枯渇が懸念されるようになる。

 そこで尾張藩は1665(寛文5)年、林政改革を断行して「留山」(とめやま)という立ち入り・伐採規制の制度をつくり、林業の育成にも力を入れ始める。木曽の運材は、こうした規制を繰り返しながらも明治まで連綿と続いていく。

 一方、河川で運ばれたのは木材だけではなかった。通常の舟に積まれた荷物には、流域沿いから徴収した年貢米も多かった。

 そもそも木曽三川の舟運は江戸時代以前から盛んだった。16世紀には道三を生んだ斎藤氏、蘭丸を生んだ森氏らが支配した木曽川流域の兼山(現在の岐阜県可児市)に川湊(港湾拠点)があった。この湊は江戸時代には、上流の黒瀬(同八百津町)に移る。

 また、長良川には鏡島(同岐阜市)、立花・上有知(同美濃市)、揖斐川には北方村(同揖斐川町)、烏江(同養老郡)など、木曽三川には物流の中継地たる川湊が多かった。

 尾張藩はこれらの湊を拠点に、流域から年貢米を集めた。幕末の記録には、「上乗り」と呼ばれる舟の乗員が住む集落が、木曽三川流域だけで100余に及んでいたとある(『四日市市史 第17巻』三重県刊)。

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