自動車だけじゃない! 日産・トヨタ・SUBARU・スズキが残した「住宅産業」への大きな影響とは
戦後の自動車大手による本格参入

国内屈指の自動車メーカーであるトヨタ(当時はトヨタ自動車工業)は、豊田喜一郎社長の掛け声で住宅生産の研究を開始。豊田社長は「自動車と同じように住宅も工場生産化できる」と考え、研究を重ねた。
1946(昭和21)年から事業化したトヨタは、1948年に試作第1号として国鉄の東京鉄道局自動車庫を完成させる。翌年には、神奈川県営・川崎市営共同住宅を皮切りに次々と住宅を建設。これらのノウハウは、トヨタおよび関連企業の社宅建設にも発揮された。
住宅建設を手がけていくうちに、トヨタは住宅生産の技術力を高めていった。それとともに住宅建設部門をユタカプレコン(現・トヨタT&S建設)として分社化。同社はトヨタライトハウスと呼ばれる工法を開発し、高度経済成長期における住宅供給の一翼を担った。
以降もトヨタは自動車製造の技術を用いて活発的に住宅を生産している。トヨタの強みは建物の躯体のみならず、グループ会社のトヨタ車体が床間・押し入れ・収納、アイシン精機が洗面・洗濯設備、日本電装(現・デンソー)がキッチン・冷暖房設備、豊田工機が浴室・トイレ設備といった具合に設備面においても、オールトヨタ体制で研究・開発・試作に取り組めたことだろう。
日産・トヨタに遅れたが、富士重工業も1971年から住宅生産事業に参入。富士重工業はバスボディーの加工・製造技術を応用して、工事現場の事務作業所で見かけるようなユニットハウスを販売。これらは歳月とともに技術を高め、1995(平成7)年に起きた阪神大震災では被災者の仮設住宅として、1998年には長野五輪の会場施設として使用されるまでになった。
1974年から住宅生産事業に参入したスズキは先行していた自動車メーカーと同様に、自動車生産の技術を応用。ミニハウスと名付けられた住宅は1985年には年間で約5万棟も建設されるようになる。
多くの住宅メーカーがしのぎを削る中、自動車メーカーもその生産工程や技術力から家づくりに大きく貢献した。自動車メーカーの奮闘がなければ、戦後の復興期から高度経済成長期における住宅不足の解消は遅れたことだろう。住宅供給の遅れは、人々の生活に大きく影響を及ぼし、それは伸びていた経済にブレーキをかけたかもしれない。